女房と結婚する前のことだ。婚約なんぞをして、あとは式の日を待つばかりなんて時期のころ、週に一度くらいの頻度で、女房の実家に夕食をご馳走になりに行っていた。娘の旦那予定者が来るわけだから歓待してくれるわけだが、コタツに入って夕食になるのを待っていると、女房の実家の人々以外にも、歓待してくれるものがいた。そいつはノソノソと近づくと、なんの迷いもなく私の膝に入ってくる。私はあぐらをかいてコタツに脚を入れているので、そいつはコタツ布団に乗り、私の太ももの上あたりで丸くなって眠りだすのである。
そいつは女房の実家で「ぶー子」と呼ばれていた。ちょっと不細工な顔の猫である。なぜだか私はぶー子に気に入られたらしく、私が行くと必ず膝に入ってきた。猫好きのする男なんだろうか。
結婚し、2年と少しして長男が生まれた。その少し前に、ぶー子が死んだ。猫は姿を隠して死ぬと言われるが、あまりにも人に慣れていたぶー子は、実家で普通に亡くなった。ちょうど女房の出産が近かったこともあり、周りは「子供が生まれてくるから身を引いたのかもしれない」と言っていた。女房がお産のためにしばらく実家に戻ることが決まっていたから。
それから8年ほどが過ぎ、三男が生まれる少し前に、それまで住んでいたアパートから、今、住んでいる家に引っ越してきた。その4年後、子犬がうちに来た。今でもその子は、もう老犬の域に入りつつあるが、家族の一員としてわが家にいる。そして最近、新たに家族らしきものが増えそうな雰囲気になっている。猫である。
事の始まりは、残飯だった。うちには小さいながら畑があり、そこの一部に穴を掘って残飯を捨てていた。残飯は、多くの場合、湿気をたくさん含んでいる。これを生ゴミとして出す場合は、できるだけ汁気をなくした方が、市の巨大な焼却炉にやさしいと聞いていたので(実際は水分が多いと火力が落ちることに問題があるのだろうが)、少しでも炉のためになればという思いで、生ゴミは畑に捨てていた。また飲み残したラーメンの汁とか味噌汁とかは、排水路に流すといろいろと問題があるとも言われるため(川を汚して、海に赤潮を起こさせるなど)それらの廃棄にも気を遣い、畑に捨てて肥やし代わりにしていたのだ。
しかしそれを狙うものがいた。野良猫である。うちの近くは田んぼが少なくないので、街中ほど野良猫が闊歩することはない。それでも1、2匹は現れていた。われわれは猫が残飯を狙っていると気付かなかったので「最近、猫がいるね」程度の会話をするに留まっていた。
女房は元来、猫好きなので、家の近くをぶらぶらする猫に勝手に名前を付けていた。「ミー」は、三毛猫とトラが混ざったような猫で、4本の足が白かった。「茶々」は全体が薄茶色だった。これら野良猫はそれほど頻繁に訪れるわけではなかったので、女房がたまに「今日は茶々を見たよ」などと話す程度のことだった。
そのうち茶々が子供を産んだ。うちの庭は天敵がこないらしく、子猫と2匹でごろごろしていた。まあしょうがないなと思っていたのだが、そのうち親猫(茶々)の姿を見なくなってしまった。残された子猫は、親猫を探しに行ってもよさそうなものだが、なぜだか一匹で、うちの庭やら裏やらにいた。特に食べるものがなくても、なんとなく定住してしまったようだった。おそらくどこかで何かを食べているのだろうと思い、食べ物がなくなればまたどこかへ行くだろうと高をくくっていた。しかしそうはならなかった。その子猫、生まれて1年近く過ぎても、まだうちの敷地内をぶらぶらしているのである。
当然、うちの人間になれてくる。洗濯物を干していると、足下に寄ってきてすりすりする。それがかわいいので、ついかまってしまう。女房が「クウ」と名前まで付けてしまった。そんなこんなで、うちの軒先を寝床とする日々が続いていた。
そして先月の2月のことだ。やけに外がうるさい。猫数匹の声がする。なにやら怪しげな声だ。いわゆる「さかり」である。年に2、3度あると言われる発情期(繁殖期)だ。メスは生後半年から1年くらいの間に初めの発情期を迎えるそうだ。メスであるクウが生まれたのは去年の春ごろだった。
さかりになると、とにかくうるさい。メスが怪しい声でオスを呼ぶし、複数のオスはメスを求めてケンカをする。夜にアオーン、ニャーゴとやるので、うるさくてたまらない。これには閉口した。また、ただうるさいだけではないことに気付いた。うちの敷地内に住み着いたクウが妊娠してしまう可能性があるのだ。となるとまた子供を産む。つまりまた野良猫が増えることになる。うちの敷地内に1匹だけごろごろしているくらいならまあ許せるが、何匹にもなるとさすがに困る。またそいつらがご近所に迷惑を掛けるかもしれない。これも困る。かといって保健所等に頼んで駆除してもらう気にはなれない。
そこでわが家では、一つの結論を出した。うちの軒下に住み着いたクウを飼おうというのだ。クウはうちの人間になれてしまっているので、いくら追い立てるようなことをしても逃げていかない。反対に遊んでもらえると思って寄ってくるくらいだ。それならいっそのこと飼ってしまおうというわけだ。女房の猫好きは周知の事実であり、私は猫に好かれるたちのようなので問題ない。長男も次男も動物好きだ。さらに元気だったころの三男が「僕、猫が好きじゃんね」と言っていたことを家族で思い出し、それが決定打となった。
とはいえ、ずっと野良で来たのだから、家で飼えるとは限らない。もしかしたら外で暮らす方が良いとクウが思っているかもしれない。そのときはそのときでしょうがないが、発情期は今、来ている。ということで、とりあえず去勢手術をし、家で飼えるなら飼う。もし本人(本猫?)が室内を嫌がり、外での暮らしを望むなら、そのときは猫の好きなようにさせようということになった。
ただ手術をすることについては、次男から「人間の勝手で、猫を去勢するのはどうかと思う」という意見が出ていた。確かにそれも一理ある。だが、完全に家の中だけで飼うのならいいが、外に出るメス猫をそのままにしておいたら子供を産んで野良猫を増やすことになる。野良を駆除することは心情的にできないが、増えないようにするのは、彼らのためにも悪いことではないのではないかなどと議論をした。
実際に、とある公園にいる大量の野良猫(メス)の去勢手術をやっているNPOがいるという話をテレビのニュースで知った。手術をし、適宜エサを与え、トイレとなる砂を用意するなどすることで、公園の中で悪さをせずに一生を過ごせるようにしているとのこと。うちでもクウの手術をし、エサも適宜与えていくこととした。トイレはすでに、庭の砂が露出しているところで排便しているようなので、そこに糞がたまったら集めて畑に埋めようなどとも話していた。そうすれば、外にいてもご近所に迷惑が掛からないはずだと思ったからだ。
ということで実行。クウはわが家の人間になれているので、普通にだっこして獣医へ。結果、院内感染を防ぐためのワクチン接種や、去勢手術その他で、数万円のお金がかかったが、まあしょうがない。
さてわれわれは、手術をしてしまえば、あとは何とかなると高をくくっていたのだが、そうではなかった。手術後、しばらくは外出をさせてはいけないと言う。また毎日、化膿止めの抗生剤を飲ませなければならない。また10日ほどしたら抜糸をしてもらいに獣医へいかなければならない。これは困った。
ということで、手術を終えた日は、玄関に柵を置いてそこで寝かせた。排便が心配だったので、人間用トイレで流せる猫用の砂(みたいなもの)も買ってきて、浅い段ボール箱に入れて玄関に置いた。抗生剤は無理やり飲ませることはできないので、猫の好きそうな缶詰(カルカンとか)を買ってきて、それに混ぜて食べさせた。いやはや、大変である。これじゃあ飼い猫と変わらない。
そんなこんなで、1日は家に居たが、さすがに外へ出たがったので、2日目に出してやった。獣医も「せめて1日は家の中で」と言っていたので、なんとか1日は室内に居させることができた。その日、室内のカーペットの上で排尿されてしまったが……。
そして10日後、抜糸に連れていった。黙って糸を抜かれていた。ほんとうにおとなしい猫である。
ということで、その後、家の中で飼おうとしたのだが、やはり元来が野良であるためか、しばらくすると外へ出たがる。また室内に犬がおり、この子が猫にちょっかいを出すので、猫が閉口しているということもある。
で、結果、わが家はクウの「食堂」となった。
朝早く、玄関でニャーと泣くので入れてやる。猫用のエサを食べ、水を飲んで、しばらく遊ぶと外へ出て行く。午後も気が向くと入ってくる。夜もまたエサを食べに入ってくる。そして外へ出て行くという毎日だ。全くもって、彼女は猫らしい日々を送っている。
先に書いたように、排便はうちの庭の砂でやっている。糞の上に砂がかけられ、こんもりと盛り上がっているので分かる。また玄関外でニャーと鳴くと、家に居るものが入れてやり、エサを食べさせる。ということで、おそらくご近所には迷惑を掛けていないと思う。
そんな奇妙な関係が出来上がっている。今では、家族の誰かが帰ってくると、待ちかねたように玄関へ走ってきて一緒に入ってくる。そして適当に食べて飲み、少し遊んで(あるいは少し寝て)また出て行くのである。
これでは飼い猫とは言えないだろうが、プチ飼い猫状態である。野良出身のクウには、これが一番居心地がいい状態かもしれない。とりあえずは、この状態で過ごしていこうと思っている。
そうそう、クウという名前は女房が付けたのだが、大の大人の男(私だ)が猫相手に「クウ、クウ」と呼ぶのは、なんとなく気恥ずかしい。ということで私はこの子を「ハチ」と呼んでいる。「クウ(9)」の一つ前で「ハチ(8)」だ。それを聞いた次男が「じゃあナナでいいじゃん」と言い出したが、私は「ナナじゃ、かわいすぎるだろう。やっぱりハチだな」と言う。でも内心は「ハチじゃあ、昔の犬の名みたいで、ちょっとおかしいな」と思うのだが、そう思っていることは家族には内緒である。
